
結実の時:2026年、早春
2026年2月末。私がサウンドデザイナーとして心血を注いできた一つの巨大なプロジェクトが、ついに世界へと放たれる。
誰もが知る有名シリーズの最新作。機密保持の関係でその名を明かすことは叶わないが、長年このシリーズの音を構築してきた私自身、最終チェックのたびにその完成度の高さに溜息を漏らしている。シナリオ、ビジュアル、ゲーム性、そしてサウンド。あらゆる要素が比類なきレベルで結晶化したこの作品には、制作現場の凄まじい熱量が生々しく宿っている。
しかし、この記念すべき門出の直前、業界では不正入手された画像やリーク動画が拡散されるという不穏なノイズが走った。
断言しよう。粗悪な動画と音声がどれほど巷に溢れようとも、私たちが心血を注いで構築した世界は、微動だにしない。本質的な構造は、そのような表層の汚れ(ノイズ)程度で揺らぐほど脆くはないからだ。だが、静寂の中で熟成を待つ聖域の門出を前に、ちょろちょろと糞尿を撒き散らすようなその卑俗な振る舞いは、表現者に対する冒涜であり、不快以外の何物でもない。 この「消費の暴力」こそ、私が最も忌み嫌う、現代社会の歪んだ効率主義の産物である。
「プリセット」という名の空虚
昨今、世の中は「時短」「コスパ」「タイパ」といった言葉に席巻されている。いかに少ない労力で、効率的に高いパフォーマンスを得るか。それを謳う商品や動画、当てるだけで「それっぽくなる」現像プリセットがもてはやされる時代だ。
率直に言おう。私は、それらに全く興味がない。
私のファインアート写真において、テンプレートとしての「プリセット」は存在しない。一定のワークフローはあるが、それはあくまで目的地へ至るための道筋に過ぎず、誰かの価値観を当てはめるだけで作品が完成するような安易な道具ではないのだ。
かつて、私は動画で手法を指南したこともあった。しかし、今後はそうした「手法的」な発信はしないと決めている。本質を曲げてまで「分かりやすさ」を優先し、まがい物のアートが大量生産される片棒を担ぐのは、私の本意ではないからだ。
「非効率」という名の、唯一の正解
唯一無二のクオリティを生むために必要なこと。それは、極めてシンプルで残酷な事実だ。「圧倒的な時間をかけること」。これ以外に道はない。
ゲーム業界におけるAAAタイトルの開発は、経営的視点で見れば、驚くほど「コスパの悪い」世界である。4年の歳月を費やすプロジェクトにおいて、その大半を「試行錯誤」に費やし、実制作は最後の1年、というケースも珍しくない。
だが、この「非効率」に見える数年間こそが、作品の命運を分ける。芳醇なワインやウイスキーが1年の月日では決して生まれないのと同様に、高品質な表現には「熟成」のための物理的な時間が必要なのだ。削ぎ落とされたノイズ、練り直された設計図。それらが見えない構造(Structure)として積み重なったとき、初めて「名作」という花が開く。
この「熟成」という観点において、私の師である伊福部昭の足跡はあまりにも示唆に富んでいる。
師は生涯で300本を超える映画音楽を手掛け、多作を極めた。しかし、自らの名を冠する「純音楽」としての作品数は、その長い生涯を鑑みれば決して多くはない。消耗される現場で圧倒的な速度と対峙しながらも、師は自らの本質を刻む「構造」には、決して妥協のない時間を捧げていた。
人の心を震わせる表現は、この贅沢な時間の投資の果てにしか存在し得ない。SNSに溢れるインスタントなアートを、あなたは一年後にまた見たいと思うだろうか? 朝に「いいね」をして、夜にはその内容すら忘れてしまう。そんな消費されるだけの表現に、私は興味がない。
時間がもたらす「視点」の成熟
私のファインアート作品も、完成までに早くても1ヶ月、長いものでは1年以上の歳月を要する。
一気に仕上げないのは、私が「時間の与える魔法」を信じているからだ。あえて作品から距離を置き、熟成を待つ。時間をおいて見直すことで、撮影した瞬間には見えなかった「表層の下にある真実」が、ゆっくりと浮かび上がってくる。
時間は、技術だけでなく、表現者の魂をも成熟させる。作品が作者の脳の片隅で、来るべき「その時」をじっくりと待っている。その沈黙の時間こそが、作品に深み(奥行き)を与えるのだ。
覚悟が純度を決める
作品作りの秘訣は何か、と問われれば、私はこう答えよう。
「時間をかけることだ。誰もが平等に持っている資産。それをいかに作品の奥底へ注ぎ込めるか。その覚悟こそが、君の作品の純度を決めるのだ」と。
効率の先には、便利な消費物しか残らない。 私はこれからも、時代の逆風を浴びながら、悠久の時間をかけて「構造」を築き続けていきたい。






